2012年8月29日水曜日

「ヒーハー」て最初に聞いたのはPSYCHO+でした。

イワンコフやブラマヨの小杉が言う「ヒーハー」って言葉を最初に知ったのは、藤崎竜氏の漫画PSYCHO+に登場する高屋敷朱未って女の子でした。

「死後使い」を名乗るこの女の子が「ヒーハー、なめんなよ。」って言うんですよね。


というわけで、この時点で既に死後になってたわけなんですよ。で、西暦も2012年になった今頃語源が気になり出した。

もともとカウボーイのかけ声なんですね「ヒーハー」って。なるほどー。また1つおりこうになりました。

2012年8月18日土曜日

「リトルピープルの時代」を読んでなぜ最近の仮面ライダーの敵は幼稚園バスをジャックしないのかが解った。

以前JAM THE WORLDに出演されてたのを聴いて、面白い人だなー。と思ったのが批評家の宇野常寛さんという方でした。
この方が昨年出された本を最近読んだんです。
それが「リトルピープルの時代」という本。

以前書かれた「ゼロ年代の想像力」って本も読んだのですが、これも面白かった。

話が似ている部分もあったのですが3年経ってる分考察が深かった。

村上春樹の1Q84をメインに日本で物語がどのように書かれているのかを考察しているのですが、ぼくが特に興味深かった、というか読んでいて一番色々考えたのが物語に対する「敵」の描かれ方についての言及でした。

ぼくが子どもの頃は「敵」は分かりやすい「悪」で良かったんですよね。
それが今の時代は「正義」と「悪」の定義がすごく曖昧になっているわけですよ。
というか実は曖昧だったことが浮き彫りになってきた、というほうが良いのかもしれない。

政治家、マスコミ、原発報道その他諸々だれが正しくて誰が正しくないのかなんて簡単にはわからない。

そんな時代なので「敵」って一体誰なのかがどんどん曖昧になっていく。なので物語を描く場合何を「敵」として主人公は戦うべきなのか、慎重に描かなければならない。ある人によっての「敵」は他の人にとっては「味方」かもしれない。ちょっと前まではドイツの軍服をイメージさせるような、アメリカの科学技術や軍事力を彷彿とさせるような、そんなのを敵とすれば良かったわけですが、今は「これが敵です」ときっぱり言い切ってしまうことは危うい。そんな時代ってわですよ。

「リトルピープルの時代」は後半はそんな時代にヒーローを描き続けている平成の仮面ライダーシリーズについても考察しているわけなんですが、そういえば確かに、ここ何年かの仮面ライダーの「敵」は何を目的にしているのか解らない奴らが多いですよねー。

今クライマックスを迎えつつある仮面ライダーフォーゼは「学校」という舞台で「高校生」を主人公にすることで、「友情」を破壊しようとするものを「敵」と定義してるので分かりやすいんですが。

てな考察なのですが、ふっと思い出したのがファイナルファンタジーなんですよ。

ファイナルファンタジーのⅠはぼくが小学校2年生の時に発売になったのですが、その後一時期誰もが認めるRPGの王として君臨してて、それがいつの間にやら「昔のFFはよかった」とか言う声が増えてきてますよね。

この「昔のFFはよかった」と言われ始めた時期と「敵」の定義が曖昧になって来た時期がかぶってるような気がするんですよ。気のせいかもしれないけど。

やっぱりね、凄くむかつく悪者がやっつけられるとスカッと気持ちよいのがイイ物語じゃないですか。
でも、絶対的な「敵」が定義できなくなったってことはある物語で、ある人にとっては凄く腹の立つ悪者でも、ある人にとってはそんなに悪いと感じない、なんてことも起きるかもしれないですよね。

だから、ひょっとしたら万人ウケする感動的な物語もつくりにくいし、万人ウケするゲームの設計もしづらいのかもしれない。そう考えたら「昔のFFはよかった」てのも安易に言えないのかもなー、とか。まあ、統計とったこともないので完全に想像なんですけどね。


2012年8月10日金曜日

BGMのように観たくなる映画「アメリ」

先日フランス映画の記事を書いたのでその続きで「アメリ」の話。

2001年くらいの映画ですよねー。
もう10年以上前なのか。
でも、何度でも観たくなってしまうのですよ。

小洒落た雰囲気と軽快なテンポのあるお話で凄く観てて楽しいんですよね。
子どもの頃の体験から、自分には精神的なハンデがあると思い込んでいる妄想好きの女の子アメリが、その妄想を使って皆を幸せにするいたずらをするんですよね。そんな日々の活動の中で気になる男性ができてしまう。
でも、自分に自信が持てないせいで、他の人の人生の幸せには積極的におせっかいを焼きながら自分のことは奥手なアメリ。
アメリは自分のことも幸せにできるでしょうか?

みたいな話なのですが、ぼくこの映画で凄く好きな部分が「色」なんですよ。
全体的に黄色味を帯びた世界に緑と赤の補色対比の服を着て、世界から浮いてしまっているようなアメリ。という配色。
凄くアートな印象なんですよね。

ところで、最近この配色が気になって凄く気に入り、何度も観ている映画があるんですよね。
つみきのいえって映画。

この映画も、黄色を基調とした水没していく街で赤と緑の配色のおじいさんが頑に引っ越さずにくらしてるんですよ。

やっぱ黄色人種の日本人にとって「黄色」の世界ってのはなんかひっかかるところがあるんでしょうかね。日本の文化のいろんなところで下敷きになってる中国の文化では黄色は高貴な色ですし、太陽の色で稲穂の色で、きっと黄色はなにかあるんでしょう。

だからナウシカも金色の野に降り立つのかな?


2012年8月6日月曜日

Le dernier chaperon rouge(最後の赤頭巾)

フランス映画って子どもの頃見たら意味が分からないじゃないですか。(ぼくだけだったのかもしれないけど)

情緒的な心理描写やら文学的なセリフ回し、そして美的な画面表現なんて子どもには難しすぎるわけですよ。

それが、ある程度大人になってくると、だんだんとわかるようになっていく。

ぼくは最初に見て衝撃を受けたのが「フェアリーテイル」というオムニバスの3部作映画の3作目、「Le dernier chaperon rouge」という映画でした。邦題で「最後の赤頭巾」。たまたまテレビでやってたのを見たってスンポーなんですよね。

主演はエマニュエル・べアール。

ざっとあらすじをいうと、
大勢の赤頭巾ちゃんたちが宇宙船で移民してたんだけど、次々と死んでいき、最後の1人になったエマニュエル赤頭巾ちゃんがある星に漂着するのだけど、その星には老婆となり足が不自由な赤頭巾さんがいて、若くてキレイな赤頭巾の足を探していて、エマニュエル赤頭巾ちゃんの足を狙う、というサイバーでファンタジーでグロテスクでアートな映画でした。(うろ覚え)

ただグロテスクなんではなく、あとからじわじわと心に刺さってくるような造形のデザインにカラフルな配色のキャラクターたち、そして不思議な音楽に乗せて登場人物たちが歌うように会話をするんです。つまりミュージカル風。そして、不気味なカメラワーク。

で、ぼくはえらく衝撃を受けたわけなんですよね。
それまで、邦画とハリウッド映画しか知らなかったので。
これがフランス映画か!!
と。

というわけで、この映画を見たちょっとあとに見たアメリにドハマリしたのでした。

そんなぼくとフランス映画の物語。

日本ではDVDの販売はされてないみたい。
でも、さすがIT時代。ユーチューブで検索かけたら一発でした。

1/5

2/5

3/5

4/5

5/5

2012年8月1日水曜日

最近、自分の描く絵から「絵を描くことの喜び」を感じないことにはたと気がついた



これはいかんことです。

仕事や育児をしながらの空き時間をせっせとつくって絵を描く。
なんでわざわざそこまでして絵を描くのかと言えば「絵が好きだから」のはず。
それなのに、「時間ができたから絵を描かねばならん」みたいな気持ちで絵を描けば
そりゃ事務的な作業のようなにおいの絵になってもしかたない。
まさに本末転倒。

というわけで、最近は意識的に気楽に描こうと思っている。

「せっかくつくった時間だから」とか「コンクールまであと何日」なんてのは
モチベーションを上げるには大事な呪文なのですが、あまりにとらわれすぎると
創造的な活動が事務作業になってしまう。そんなことに気づいたここ最近。


けっこう大事なことに気づいた気がする。

というわけで、今年の夏は気楽に描きたいように描きたいものを描いてみようと思っているのです。